昼下がりのとあるビル。螢が日ごろ世話になっている編集社が入っているオフィスビルで、螢の友人である麻生優雨が勤めている場所でもある。
エレベーターで上階を目指し、扉を開けた螢は見知った友人を探し、視線をキョロキョロと漂わせた。
しかし、オフィスのどこにも友人の姿は見当たらない。
「あっれー・・・おかしいな・・・・・・」
「うん?天倉さんじゃないですか。どうしました?」
頭をかき、手にした封筒に目を落として困った表情をする螢の元へ優雨の上司が通りかかり、螢へと声をかける。
「ああ、こんにちは。いえ、優・・・麻生さんに借りていた資料を返しに来たんですが、彼は外出中ですか?」
「麻生君なら、今日は他の先生のところへ原稿を貰いに行っていますよ。時間がかかりそうだから、そのまま直帰すると言っていましたが・・・。どうします?その資料こちらでお預かりして明日こちらから返しておきましょうか?」
上司の説明に困ったように一つ嘆息し、螢は余所行きの笑顔を浮かべる。
「いいえ、直接手渡しで返すと約束したものですから。また後で彼の自宅へ届けに行くことにしますね。ご迷惑をおかけしました」
「いやいや、こちらこそご足労いただいたのに申し訳ない。麻生にはきつく言っておきますので」
「いえ、しっかりと確認をしなかったこちらにも非がありますから、どうか彼を責めないでやってください」
上司に一つ礼をすると、螢は用のなくなったオフィスを後にした。
さて、どうするか。
一旦自宅へ戻ってもいいが、自宅から優雨の家へ寄るよりはここからの方が近い。
「どこかで時間でも潰すか・・・。いやでも直帰するくらいなら相当時間かかるよなぁ・・・・・・」
「・・・仕方ない。一旦帰って家から優雨んち目指そう」
オフィス街に照りつける太陽を見上げながら、一人ごちて肩を竦め、螢は地下鉄へと歩みを進めた。
夜の帳が落ちすっかり辺りが暗くなった頃、優雨へ資料を返す為に螢は人気のない道を歩いていた。
優雨の自宅は閑静な住宅街のある駅近くなので、どうしても往来は寂しくなりがちだ。繁華街のような活気さがなく、疎らな人影もどこか疲れた足取りのものが多い。
さて、どうするか・・・。
螢は資料の入った封筒を抱え直しながら、歩みを緩めて逡巡した。
この前酔いつぶれて優雨に介抱された一件から、どうも優雨と二人きりで会うのが苦手になってしまっている。
螢は自然と表情が強張っていくのを感じながら、重い足取りで優雨の住むマンションへと歩を進める。
だからこそ今日も、他の人間がいるオフィスに資料を届けてすぐ帰路に立つつもりだった。人目があると安心するのもあるが、仕事で会う優雨は友人以前に編集者の一人で、螢は作家の一人。驚くほど他人行儀な言葉遣いと態度を示す優雨に毎回違和感だけを覚えていたが、今回ばかりはそれを恋しく思いながら、一つ息を吐いた。
「きっと・・・からかわれただけだ・・・それか・・・優雨も酔っていただけだ・・・」
本当にそうだろうか?あのザルを超えてワクだと言われる優雨が本当に酔っ払っていた?
自分ならともかく、いくら酒が入っていたからといって、そんな冗談を優雨が行うだろうか?
いいや、疑問を抱いては駄目だ。
螢は首を横に振り、到着したマンションのエレベーターへ乗り込み、ボタンを押す。
そう、疑問を抱いてはいけない。抱いた疑問はいずれ疑念となり、取り返しのつかない事態へと発展していく。
そうなってしまえば、大切な『何か』を失うことくらい、容易に想像できる。
「大丈夫だ・・・友人に資料を返しに行くだけなんだから・・・」
自らを納得させる為か言い訳か、独り呟きながら、エレベーターの機械音に耳を傾ける。程なく、優雨の住む階へと到着するだろう。
螢は最後に嘆息をしてから、意を決したように開いたドアの向こうへと歩き出していった。
優雨の自宅へは、何回か遊びに行ったことがあるくらいで、実はあまり訪れたことがない。
お互い多忙で不規則な仕事を生業としている為、専ら遊ぶ予定は外ばっかりである。大抵、呑むか歌うか小旅行と称して近場へ出かけるか。
それさえも多忙に多忙を重ね、優雨や真冬のスケジュールと合うこともなかなかないので仕事以外で交流を深めたのはこの間の飲み会が久しいものだった。
「そういえば・・・俺は優雨や真冬のこと・・・どれだけ知っているんだろうな・・・」
優雨の部屋の前で小さく呟き、インターホンを押す。
軽快な音が一つ流れ、ドアの内側から鍵を開けるカチャリという硬質な音が聞こえてきて、螢は思わず息を呑んだ。
何を、緊張しているんだ。いつも通りに、しなければ・・・。
「螢?どうしたの、ここまで来るなんて・・・」
ドアを開けた優雨が目を丸くして、驚きを表す。その表情はあんなことがあった以前と何も変わらず、一人の友人としての顔そのものだった。
しゃべろうと開いた唇が緊張でかすかに震え、舌がもつれそうになる。
だめだ、動揺を見せては・・・
強張る顔を必死でいつもの笑みに作り変え、手にしていた封筒を優雨の胸元にポンと押し当てながら、螢は何とか言葉を紡いだ。
「借りてた資料。今日返すって言ってたのにお前、オフィスにいなかったからさ」
「え?・・・あ!そっか、あれ今日だっけ。ごめん螢・・・。でもわざわざ来てくれなくても、別の日でもよかったのに・・・」
「それも考えたけど、優雨もこの資料使うって言ってたし、俺はこれから新作の取材にちょこちょこ出かけて忙しくなるから、いっそ今のうちって思ってな」
封筒を受け取りながら、優雨が申し訳なさそうに眉尻を下げる。
どうにか、いつもの対応が出来た。動揺を悟られる前に、ここを退散しなくては。
そう、頭の中で逡巡をしていたのに、優雨は申し訳なさそうにしながらもドアを開け放ち、
「折角わざわざ来てくれたんだから、上がっていったら?」
螢への止めとも思える台詞を言い放つのであった。
「あ、いや・・・でも・・・・・・届けるだけのつもりだったし・・・もう夜も遅いし・・・」
「・・・まだ8時にもなってないよ螢?」
「・・・・・・お邪魔します・・・」
自分以上に口が達者な優雨相手に、これ以上上手く切り抜けられる術をもたない螢は、素直に部屋の中へと招かれた。
気を緩めるとすぐ汚れて散らかっていく螢の部屋と違い、綺麗に整頓された優雨の自宅。
本棚の本一つにもそれは当てはまり、同じ作者の出版順に綺麗に並べられた文庫本や資料などが見やすいようにきちんと納められている。
通された部屋から見える台所も綺麗に整理されており、収納棚には調味料や薬味が並んでいるのが見え、すぐ外食や出来合いで済ませてしまう螢とは違い、それなりに自炊をしているであろう証が見え隠れして、改めて優雨がよく出来た人間なのだと螢は実感した。
「コーヒーか紅茶・・・あとビールもあるけどー」
「あ・・・え・・と・・・コーヒーでいいわ」
「珍しいね?いつもならビールあるならビールに決まってる!とか言うのに」
台所へ立った優雨が語尾を延ばした穏やかな声で螢に飲み物を勧めるが、ぼんやりとこれからどう優雨と話してどうこの場を立ち去るかということばかりを考えていた螢は、腑抜けた声で取り繕うことしか出来ない。
そんな螢を不思議に思ったか思わなかったか、優雨はいつも通りの穏やかな声音で返事をし、お湯を沸かしだした。
さぁ、どうする・・・。
最早これは何かの任務かというくらいに気を張り、優雨の一言一句に集中していた螢は優雨がコーヒーを作る間、どうすればこの状況を打破出来るか思考を巡らせ始める。
あの夜のことは、触れない方がいいのか。
いやけれど、触れないでいればいずれ優雨にも態度の硬化を気づかれてしまう。それならばいっそ今ここで問いただした方がいいのではないか?
きっと優雨のことだ、あんまりにも螢があんまりだったからからかった。とか何とか言ってくるだろう。
いや・・・しかし、もし、万が一・・・冗談でなかったとしたら?
膝の上で硬く結んだ拳を更にきつく握り、螢は一つの可能性に目を細めた。
もし、あの時見せた優雨の表情が、記憶違いじゃないなら・・・?
あの口付けが、本気だとしたら・・・?問いただしてそれを肯定された時、俺は優雨にどう応えてやることが出来る・・・?
瞬きも忘れたかのように微動だにせず、螢はひたすら思考を廻らせた。
もうどう取り繕っても、どんな態度をとっても以前と全く同じように優雨と接し合えることはもうないのだと、頭の隅ではすでに理解していたが、それでもせめて痛みを少なくせんとばかりに最善の手を考える。
そうしていたものだから、いつの間にか優雨が横に立ち、湯気の立つコーヒーを持ってきてくれていたことにも気づかなかった。目の前にコトリという音と共に置かれた琥珀色の液体が納められたカップが差し出された折には大仰に驚いて、弾かれたように顔を上げると、そんな螢の態度に驚いた優雨と目が合う。
「コーヒー・・・。砂糖とミルクはなしでよかったんだよね?」
「あ、ああ・・・。あ、ありがとう・・・・・・」
驚いた優雨の目を見た瞬間、何故か心臓が一つ大きく跳ね、螢は慌てて顔を背けて視線を泳がせる。
今置かれたばっかりのカップを手に取り、強引に傾けて琥珀色の液体を喉に流し込んで行くとどうにもこうにも熱く、喉が焼けてしまいそうだったが、逆にそれによって思考に気合が入ったようにも思えて、螢は目を一瞬細めてから、カップをテーブルへと戻した。
優雨が、どうでるか。気はそこへ集中している。あのことには触れるのか触れないのか・・・。いつもなら沈黙に耐えられない螢の方から何かと話題を振って場をもたせているのだが、今はとてもじゃないがそんな振る舞いはできそうになく、ただカップの中で僅かに揺れる琥珀色のコーヒーを見つめることしか出来ない。
そうやって視線を落としていた螢には、優雨のいつもとは違う表情に気づくわけもなかった。
「螢・・・・・・」
螢の名を呼ぶ声が聞こえ、不意に優雨の指が螢の顔へと伸びていく。
反射的にびくりと体を震わせた螢は、驚いたように身を捻って優雨の手を軽く払いのけていた。
「あ・・・・・・ごめ、優雨・・・」
「・・・・・・・・・髪の毛に、埃がついてたから・・・」
眉尻を下げて困ったように微笑む優雨の表情は、いつもと違いどこか寂しげで、それは螢もよく理解していたが、今日に限ってかける言葉が浮かばない。
目を泳がせ、何か声をかけようと逡巡していたら、再び優雨の手が螢へと伸ばされ、今度はそっと頬を包み込む。
やはり、螢の体は螢の意に反して、驚くようにびくりと震えていた。
「螢・・・もしかして・・・・・・この前のこと、意識してる・・・?」
困ったような、寂しげな笑みのまま、優雨が螢に問いかけてくるが、螢は何も答えられずにただそんな優雨の目をまっすぐ見つめていた。
頬を包み込む大きな手が、微かに震えているのを肌で感じる。
二の句を繋ごうとしている優雨の唇も震え、温かかった優雨の手が指先からすぅっと冷たくなっていく感覚が頬から伝わってきた。
今優雨が感じている不安と動揺は、如何なるものなのだろうか。螢にははかり知れない程のものを抱え、それでも螢にそれを伝えようとしている優雨をただ見つめ、螢は瞳を揺らす。
そんなにも動揺しながら、それでもぶつかってくるのか・・・。
真っ先に逃げることだけを考えていた自分とは大違いだ。螢は胸中で先ほどまでの自分の態度に毒づいた。
優雨は、いつもそうなのだ。
どんなに困難な事態でも、どんなに大変な事例でも。決して逃げることなく、正面から向かっていく。
それが、絶対の自信を持っているのならば特に気に留めることでもないのだろうが、優雨の場合は不安や恐怖に押しつぶされそうになりながらも、立ち向かっていくのだ。
そして、それを決して螢や真冬に告げることはない。まるで、悟られたくないと思っているかのように。
そんな男が、今まさに自分にぶつかってこようとしている。
今すぐ逃げ出したいのは、自分ではなく彼の方なのだろう。震える唇や冷たい指先がそれを全て語っているようだった。
螢はほんの少し目を細め、いつも優雨が自分にそうしてくれるように、優しく微笑む。
螢が急に見せたそんな態度に、優雨の方が驚いて切れ長の瞳を不安げに揺らした。
「・・・意識、してる。びっくりしたから」
「だろう・・・ね。・・・・・・・・・ごめん」
「・・・・・・・・・・・・」
そう言ったっきり、黙って少し目線を下げてしまう優雨を、螢はただ黙ってしっかりと見つめる。
急かしてはいけない。焦らしてもいけない。彼が彼のペースで語りだすのを、今はただ見届けることが最善なのだ。
しばらくそうして目線を下げていた優雨だが、一つ小さく重い息を吐くと、螢の頬に当てていた手をスッと引いて、また困ったような笑みを浮かべて眉尻を下げ、
「・・・・・・気持ち、悪いだろ・・・?」
そう、ただ一言だけぽつりと呟いた。
「・・・・・・そんな・・・事・・・・・・」
「そんな事ない?それは嘘だよ、螢。嫌悪感を抱かないわけないじゃないか・・・。君は男で、僕も男だ・・・。なのに、あんなことをした」
「それは・・・酒も入っていたし・・・」
「・・・・・・酒が入っていたのと、酔っ払っていたのは別だよ・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
何とか優雨を慰めようと言葉を紡いでもかえってそれは優雨の傷を抉ることにしかならず、螢はもう何も言えなくなって瞳を揺らし、押し黙った。
それでも優雨は、語り続ける。まるで、泣き言を並べるかのように。
「・・・僕が、僕自身を気持ち悪いって思うよ・・・。いくら友人とは言えど、あんなことをするなんて・・・・・・。自分の行為に吐き気さえ覚える・・・」
「優雨・・・・・・」
「・・・・・・その目だよ・・・螢・・・」
「え・・・・・・?」
わざと視線を外していた優雨が顔を上げ、螢の目を見つめてそう呟く。
そういえば、あの夜も優雨は『どうしてそんな目で僕を見る』と螢を責め立てていた。
「どうして、そうやって真っ直ぐ見てくるんだ・・・螢。まるで、見透かされてるような気分になる・・・」
「・・・・・・その目に捕らえられたら、僕は僕でなくなってしまう気さえするんだ・・・・・・」
まるで吐き捨てるように、自身の気持ちを吐露していく優雨と、ただそれを聞くしかない螢。
部屋にかけられた時計の秒針が刻む規則的な音だけが無機質に響いていて、それが妙に耳につく中、頭を抱えるようにして俯いた優雨は、消え入りそうな声で自身に止めを刺そうとしていた。
「自分でも自分がわからない・・・。その目が僕を責めている気がして・・・でも、そんな目を他の誰かに向けている螢を、見たくなくて・・・・・・その目も、螢も・・・螢の全てを欲しい、なんて思ってしまう・・・。・・・・・・手に入れられないなら、自ら壊してしまおう、とも・・・・・・」
「それで・・・あの夜に・・・・・・」
「そう・・・。酔いに身を任せて、螢が忘れてしまうのなら、それでもいいと思ったよ。・・・覚えているなら、いずれ自分の手で壊すつもりだった・・・」
自身の手をぼんやりと見つめたまま、優雨はそう呟いて手をぎゅっと握った。
揺れる瞳は悲しげで、丸めた背中は小さく、まるであの日の夜見た優雨のように、今の優雨は小さな子供のように螢の目に映る。
友人としての目で見ている自分に、どれほどのことが出来るのだろうか?
螢は唇をきつく結び、それでも今傷ついた心に自ら止めを刺そうとしている友人を慰めようと、その腕を伸ばす。
その指先が優雨の髪に触れようとする刹那、優雨はぽつりと
「軽蔑、しただろう・・・?」
そう、呟いた。
触れようとした螢の指先が、空を掠める。伸ばせば届いたのにそう出来なかったのは、優雨の言葉を肯定したようなものだった。
「・・・いいんだ、軽蔑してくれて。僕は、螢が思ってるほど大人じゃないし、螢が評価してくれてるほど出来た人間でもない・・・。弱虫で、傷つくのが誰よりも怖いから、だから傷つかない方法をとってきただけ・・・。それをどこか遠慮してると思われたなら、それはきっと事実だし・・・否定は出来ない。・・・今も、ずっと黙ってて螢に気を遣われて傷つくくらいならって思って・・・今傷つくことを選んだんだよ・・・・・・」
伏せられた優雨の瞳が僅かに揺れ、長い睫毛が震えていた。
その姿が酷く儚げで、それでいて・・・何故かとても美しく見えて。螢は伸ばしたままだった指先でそっと優雨の頬に触れた。
びくりと震える頬を、先ほどの優雨のように包み込めば、温かい。優雨の温度を感じられる。
触れてしまえば壊れそうなくらい繊細な、硝子細工のような優雨の心を温めるかのように、そっと優しく子供にそうするように、優しく撫ぜ続ける。
「それでも・・・・・・」
あれだけの想いを、あれだけの気持ちを、伝えてくれた友に自分は何をしてやれるだろうか。
中途半端な慰めは、逆に優雨を傷つけるだけにしかならず、かといって冷たく突き放すことは到底出来ない。
いや、それも勿論ある。
螢はそっと親指で優雨の目尻を撫でながら、先ほど感じた自身の気持ちに整理をつけていた。
どうにかしてやりたい。その気持ちも勿論ある。けれど、それだけではない。
今にも消えてしまいそうな、儚げで繊細な優雨のあの顔を見て、螢は心からそれを綺麗だと思ってしまった。
そしてそれは螢の胸に根付き、事実として染み渡っていく。抱いた感情を、骨の髄まで・・・脳の奥にまで、焼き付けていく。
「それでも、お前は俺にとって・・・かけがえのない親友で・・・俺の憧れなんだよ、優雨・・・・・・」
「・・・・・・螢・・・っ」
形容しがたいほど顔を歪ませた優雨が、螢の名を呼んで声を詰まらせる。
今まで堰き止められていた感情が湧き出すかのように、溢れ出た涙が螢の指先を儚く濡らしては零れていく。
初めて、だろうか。感情を露にしてくれたのも、こうやって涙を見せてくれたのも・・・。
螢は優しく拭うように指先で涙を受け止め、そっと優しく微笑む。
そうすると優雨はますます顔を歪ませ、涙を流しながら螢の胸へと抱きついてきた。
やはり泣かせてしまった。という罪悪感と共に、泣き顔も綺麗だという感情が胸の奥底で小さく己を主張するのを感じながら、螢はそっと壊れ物を扱うかのように優雨を抱きしめる。
直毛の黒髪を優しく撫ぜ、梳いてやると、やはりずっと思っていた通り柔らかく、指通りがよかった。
優しく優しく、何度も髪を撫ぜ、抱きしめる。
「・・・螢・・・・・・っ・・・好きだ・・・好きなんだ・・・っ」
子供のように泣きじゃくりながら、優雨が紡ぐのは自身の息の根を止める最後の言の葉。それはナイフの切っ先のように鋭い言葉で自分を傷つけ自分を殺し、友人としての関係までをも壊す言葉の刺撃。
そんな強い強い想いに、螢は思わずきつく目を瞑り、両腕に押し込むように優雨を強く抱きしめた。
「・・・ありがとうな・・・・・・そんなに想ってくれて・・・」
もっと気の利いた言葉をかけてやれないものなのかと、自分の語彙のなさに呆れながらそっと優雨の腕を掴んで引き離すと、涙で濡れた優雨の瞳と目が合った。
子供のようでいて、しかしどこか官能的なその瞳を見ているとどきりと胸が高鳴るが、それには気づかない振りをする。
「優雨・・・・・・その、なんだ・・・。今は俺、まだ女の子の方が好きだけど・・・・・・優雨が俺とそう、ありたいと思うなら、何ていうか・・・俺もそう思えるように、努力するから・・・」
「・・・・・・螢・・・」
「だから、壊すとか・・・自分が気持ち悪いとか、言うなよ・・・」
「人を好きになるって・・・とても大切で、素晴らしいことだろ・・・?その気持ちを踏みにじるようなことを・・・自分でしちゃいけないと・・・俺は思う・・・んだが・・・・・・」
優雨の目尻に溜まった涙を、そっと指先で掬い取る。我ながら何を言っているのだろうとどこかで冷めて呆れた自分が毒づいているが、それにも気づかない振りをしてどうにも決まらない二の句を告いだ。
優雨は少しきょとんと呆けた顔をしていたが、螢が真剣な表情で慰めるかのように語っているのを聞いたのち、ふんわりと嬉しそうな笑顔を浮かべて飛びつくように螢に抱きつき、その胸に顔を摺り寄せた。
「ありがとう、螢・・・」
「え・・・あ、ああ・・・・・・」
まるで花咲くような、固く閉じた蕾が綻んだ時のような優雨の笑顔に魅入られ、易々と押し倒されてしまった螢の胸中に感情がさざめき立ち、それは鼓動を速めて優雨にもその存在を誇示し始める。
どうして、こんなに胸が高鳴る?
目を瞠り、螢は僅かに頬を赤らめた。
「螢・・・何だか今すごく君にキスをしたくなったよ。して、いい・・・?」
微笑んだまま、そう囁く優雨の顔が徐々に螢に近づき、優しく包み込むような優雨の手が螢の頬へと伸びたが、今度こそ螢の体はびくりと跳ねることもなかった。
「・・・・・・螢・・・っ」
螢のその行動を肯定ととった優雨の顔が間近に迫る。唇から紡がれるのは、愛しい人の名前。
そして、それは螢が何か発するのを妨げるかのように、少し荒々しく螢の唇に合わされた。
初めは、あの時のように軽く。
啄ばむように。じゃれるように。何度も、何度も相手の温度を確かめるように優しく優しく合わされる。
螢の頬に当てられていた手が、そっと髪に差し入れられ、少し癖のある黒髪を混ぜるように撫ぜていくと、螢からは熱く湿った吐息が漏れた。
優雨はそれを見逃さない。
優しく啄ばむように合わせていただけの唇を、深く重ねる。そっと螢の唇を食むと彼は息を呑んでそれを強張らせるので、今度は舌先で軽く舐めて突いてみる。
そうすれば、熱い吐息を漏らせて唇はその門戸を僅かに開いた。
それはまるで優雨を誘っているように見え、しかしもう引き返せないところまで誘い込む甘い罠のようにも見えて。
そっと目を瞑り、優雨は罠かもしれないその甘い誘いに乗った。
もう、戻れない。
そう、実感しながら。
熱いほどの温度を口内に感じて、螢は頬を紅潮させた。
歯列をなぞり、そのまま差し入れられればすぐさま自身の舌と交じり合わされる。
優しく絡み、甘く吸い、時折歯を立てられれば肌が粟立ち背筋がぞくぞくと震えた。抗いようのない強い口付けに翻弄され、それはゆっくりと螢を快楽へ導いていく。
今まで何度か女性と付き合ったことはある。
当然、このような行為もしたことがあるのだが、男性である螢は基本的に恵みを与える側で、舌を交えたことはあってもここまでの快感を覚えたことはなかった。
愛され、翻弄され、嬲り尽くされてゆく感覚。舌を合わせただけでこうなのだから、優雨と交われば一体どうなってしまうのか。
自分が恐ろしい世界へ足を踏み入れてしまったことを実感しながら、優雨の背中に手を回す。
震える手が優雨の上着をギュッと強く掴み、もう離れなかった。
それは降伏の証。
螢が優雨に陥落し、従ってしまったという逃れることの出来ない事実。
しかし、それでもいい。いや、それでいい。そう思う自分が存在しているのも確かな事実で。
降伏に幸福を重ね、陥落した螢は歓楽に溺れていく。
「・・・ゆ・・・・・・ぅ・・・」
唐突に離された唇を逃すまいと螢の熱く湿った舌が差し出され、震える。
唇と唇を繋ぐ銀糸が酷く艶かしくて、螢の頭はクラクラと揺れた。
熱に浮かされた声が呼ぶのは、親友の名前なのだろうか。焦がれてしまった相手の名前なのだろうか。
涙さえ滲んだ瞳で見上げるその人影は、満足したように、楽しむように、ふわりと微笑んでいた。
それは、温かくも冷たく。妖艶でいて儚げで。螢が見たことのない艶に溢れたものだった。
ああ、なんて
なんて綺麗な顔で微笑むんだ
最早引き返せないという事実を受け入れながら、螢はただただ優雨の笑顔に魅せられていた。
密議に満つるは誰が心
ああ、やっと
やっと手に入れた